あーかい あーかい まっかいけ

85歳の母が亡くなった。母の死から教えられたことをすこし聞いてもらいたい。

真珠の指輪

遺品の整理をしているとわずかですが宝飾品が出て来ました。

高価なものはありませんが、姉と相談しながら分け合いました。

 

数少ない中でも、姉にとっても私にとっても思い出深いのが真珠の指輪でした。

昔から母はほとんど宝石類は持っていなかったので、

母がたまのお出かけで付けるこの真珠の指輪は、他に何も持っていないからこそ

特別で、私たち姉妹にとっても母の大切な指輪。という印象のものでした。

 

他には冠婚葬祭用の真珠のネックレスが一番価値がありそうで、お互いの娘達にもいい形見になるものなので、そのネックレスと指輪にはプラチナのネックレスをつけて姉と分け合うことにしました。

 

姉が真珠のネックレス、私が指輪とプラチナのネックレスをもらうことになりました。

姉は高そうなの貰って申し訳なさそうにしていて、

私も思い出の多い指輪を貰って姉に申し訳なく思いました。

 

そんなことを何度も何度も繰り返し、母の遺品の整理をしました。

 

母が身に着けていたものや、よく使っていたものには

やはり子供の私たちにも愛着があります。

 

せっかく貰った真珠の指輪とネックレス、

それと箪笥にしまいこんでいる私の僅かな装飾品達、

これからはなるべく身につけていこうと思います。

 

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母の姉

母は昭和4年、7人兄弟の3番目として生まれました。

当時はこれくらいの兄弟は普通だったのかな?ちょっと多い?

兄姉母弟妹妹妹

今も元気でいるのは母の姉とすぐ下の妹の二人だけです。

母が亡くなるとき、急な知らせでしたがすぐに駆けつけて来てくれました。

集中治療室に入っていたので面会は限られていましたし、

母の意識もあったのかは定かではありません。

伯母はそんな様子の変わってしまった母に、

 

「逝かんといて、逝かんといて 」

 

と何度も何度もはなしかけていました。

その伯母は2年前にご主人を亡くし、お葬式で会った時にあまりにも憔悴していたので、立ち直れるのかと心配をしました。

その後、その伯母と会う機会があり、小さくなっておばあさんらしくはなっていましたが、以前の明るさを少しずつ取り戻している様子を見て安心しました。

それからいくらも経たない昨年、4女の叔母が長患いの末亡くなりました。

そして今年になり母が突然亡くなり、伯母は立て続けに身近な人を失って本当に辛そうでした。

 

年老いて夫を亡くし、年下の弟妹4人に先立たれたその伯母の心境は、私には分かりようもありませんが、

長く生きればそれだけ辛いことも寂しいことも、たくさん経験しないといけないのだ。

ということを母の姉から教えられました。

 

私自身は、運命や寿命や天国や地獄や神や仏や、というある意味人のロマンのようなものは信じないで生きて来ました。

そんな私ですが、漠然と母にはあの世で笑っていて欲しいなと思ったりしています。

 

辛いこともあるだろうけれども、伯母には長く生きていてもらいたい。

「だからそんな伯母ちゃんをお母ちゃん、どうか見守っていてください。」

と、母が亡くなってから私も少しロマンを感じるようになってきました。

 

 

死ぬことは生きること

当たり前のことだけれど、生まれてきた以上誰しも死ぬときがやって来ます。

親を選んで生まれて来れないように、どう死ぬのかは自分では選べません。

 

母が亡くなって

「私もあなたのお母さんみたいに死にたいわ」

という方がいました。

 

長患いをするわけでなく、ぼけるでもなく、子供たちを悩ませることもなく、ある日突然その日を迎える。 

 

私もできることならそうなりたいと思います。

 

わたしはどんなふうに死を迎えるのだろうか、

苦しまないだろうか、子供たちに迷惑かけないだろうか。

母が亡くなったことで自分の死についても漠然と不安のようなものを感じていました。

 

そんな時、友人のお母さんの死と壮絶なまでの闘病生活について話を聞きました。

子供のころから私のこともかわいがってくれた、大きな声で話してよく笑う、元気で明るいおばちゃんでした。

病院でも人気者だったそうで、

亡くなった時、若い看護師さんたちが泣きながら死に化粧をしてくれたそうです。

80半ばのおばあちゃんが弱音を吐かず前向きに病気と最期まで闘ったからこそ、

たくさんの患者と触れ合っている看護師さんたちの心にも、迫るものがあったのでしょう。

 

友人はそんな母親の闘病生活を精一杯支えたことで、亡くなった後も出来ることは全てした。

と悔いなくお母さんとお別れが出来たようです。

 

こんなことを思うのは、長い間苦しみに耐えたおばちゃんに叱られてしまいますが、

私と母にはそんな時間が持てなくてさびしく、彼女を少し羨ましくすら思いました。

 

そこで解ったことがありました。

なんとなく自分の死について不安を感じていた私でしたが、

どんな死に方をするか、よりも

どう生き抜くかが大切なんだということを。

母と友人のお母さんとはまったく違う最期でしたが、

私たちの思ったことは同じ

“お母さんて、すごいな”  でした。

 

友人は長い看病で体力的にも精神的にも相当疲れた事と思います、

それでも病気と闘い抜いた彼女のお母さんの生き様は、

これから彼女が生きていく大きな標となったことでしょう。

 

私の母は突然亡くなりましたが、残された私たちは何一つ困ったことはありませんでした。

子供に迷惑はかけられない、と踏ん張ってきたことがよくわかりました。

 

母と友人の母の死を通して、

どんな最期を迎えることになったとしても受け止めて前へ進むこと、

いつそんな日が訪れても揺るがない毎日を送ること、

を学びました。

 

 

自分自身の死、に対しての不安は抱かなくなりましたが、

さらに大問題が発生しました。

もし今の私に最期の日が訪れたら、子供たちや周りの人たちに迷惑ばかりかけてしまうことになります。

あまりにも生き方が、ゆる過ぎる。

母の死でたくさんの事を教えられたように、

私も死んだ時、“お母さんがんばったね。私もがんばるよ。”

と子供たちに言ってもらえるように、と欲が出て来ました。

 

大きな宿題をもらったような気持ちです。

 

この宿題とても時間がかかりそうです。

まだまだ、私は死ねません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日傘

親孝行したいときには、親はなし

 

何度も何度も聞いてきた言葉ですが、そうなってみてやっと言葉の意味を知ります。

 

 

この時期になると日傘がよく店頭に並びます。

私はなぜか昔から日傘を見ると

「あ、おかあちゃんに買ってあげようかな」

と思う癖があります。

癖だとも思っていませんでしたが、今年、街で日傘が売られているのを見るたびに、

「あ、おかあちゃんに買ってあげようかな」

と思い、

「そうか、もういないんだった」

ということを繰り返しています。

 

そういえば、毎年そんなこと思っていたな、と気がつき

なのに一度もプレゼントしてなかったことに、また気がつきました。

 

 

私は多分これから毎年、日傘が売られているのを見るたびに、

ちいさく後悔をするのだと思います。

 

 

友の母の訃報

昨日、

“先月半ばに最愛の母が永眠しました”

と、私の数少ない友人の中でも親友と呼ぶべき幼馴染から知らせがありました。

長い間患っておられ容態が深刻なことも知っていたので、私の母の訃報を知らせられずにいました。

 

実は私の母も2月に亡くなって、と告げると

「なんで教えてくれへんかったん」

と涙してくれました。

 

私たちの母親は嫁ぎ先でご近所になり、偶然同郷で卒業した女学校も同じ、

母が一年後輩だった、というそんな縁もあり、私と彼女が母たちのお腹にいるときから、情報交換などして仲良くしてもらっていたようでした。

 

私と彼女は幼稚園・小学校と共に通い、中学校の時彼女が兵庫へ引っ越して行きました。

それから40年以上今もなおそのころのように、会えばしゃべりまくり笑いあえる大切な友です。

まさかこんなにも時を同じくして、母を失う悲しみを分かち合うことになるとは思いませんでした。

 

彼女のお母さんは腎臓癌だったそうで、長い間治療をされていました。

どんなにつらい治療も、つらい病状でも泣き言は一言も言わず、

お医者様が驚くほどの忍耐力で病気と立ち向かっておられたそうです。

 

「本当にあっぱれれな最期だったし、出来る事は全てしたので何も後悔はない。」

と長きに渡った看病で体重が激減したという彼女が清清しく言うのです。

 

 

最期の最期までがんばり抜いたおばちゃんと、彼女と、ご家族とに心から、

お疲れ様ゆっくり休んで下さい。

と言いたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

父のこと

阪神淡路大震災の年に私の父は亡くなりました。

震災で亡くなった訳ではありませんが、震災がなければもしかしたらもう少し長く生きていたかもしれない。そう思うことがあります。

というのは、震災の日父は大阪の病院に肺癌で入院をしていました。

手術の日にちは決まっていませんでしたが、その準備をしていたと思います。

そんな時震災があり、たくさんの患者さんが父の入院する病院にも運ばれて来ました。

父は手術まで自宅で待機していましたが、手術の予定が2ヶ月くらい先延ばしとなりました。

そんなに先で大丈夫なのか心配ではありましたが、緊急の患者さんが優先なのは当然ですし、医師の判断を信じていました。

手術自体は日常的に行われている難しくない手術で心配ないとのことでした。

しかし手術室に入って予定の時間が過ぎても、もっと過ぎても父の手術は終わらず、

何かトラブルがあったことは分かりました。

手術後医師の説明では、肺の手術が終わってから体内で出血していることが分かり、すぐに処置をしたけれど、脳に酸素が行ってない時間があった。

というようなことだったと思います。

術後父は3ヶ月間生きていてくれましたが、その間寝たきりで話すことさえできませんでした。


震災がなければ、

予定通りに手術ができていたら、

なぜ父はこんなことになってしまったのか、

手術後、姉も私も医師に原因を追究したい気持ちが強くあったのですが、

母が今は治療して治してもらわないといけないから、事を荒立てたくない、

と言ったので私たちは従いました。

3ヶ月間、母は毎日病院に通い父に付き添っていました。

些細な父の変化に一喜一憂している母を見るのもつらくて、大阪へ見舞いに行くことが、気持ちも足も重かったことを、

今でも父、母に申し訳なく思っています。

 

母の看病の甲斐なく父は肺炎で亡くなりました。

父の知人には訴えて責任追及しないのか、と言う人もいました。

姉も私ももちろん母も、父の死を納得していたわけではありません。

お葬式を済ませてから3人で病院に、父の死は何だったのかを聞きに行ったりもしました。

病院は何か警戒しているのか何人もの医師が同席し、私たちは萎縮してしまいました。

医療過誤についても調べたり、相談窓口に電話したりしましたが、

医療裁判となるととてつもなく負担がかかることは、無知な私たちにも想像ができました。

母の残りの人生を裁判を起こす事で、さらに苦しい思いをさせてしまうのではないかと、

結局父の死を受け入れるしかありませんでした。



 

 

お母ちゃん、

お父ちゃんには会えましたか?

怒ってなかった?


あの時、何もできなくて、ごめん…


そう言っといて下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

粕汁

お通夜は亡くなった日の翌々日木曜日になりました。

そのため丸々1日は母のそばで過ごすことができました。

母も慣れ親しんだ家でゆっくり眠れたことでしょう。

 

水曜日の朝、何か食べなくてはと台所のコンロにある鍋の蓋を開けると、

日曜日の朝、母が私に作ってくれた粕汁が少し残っていました。

月曜日の夜にスーパーの半額弁当を食べた時一応火は1回通していましたが、

丸3日経った粕汁を姉と姉の娘姉妹とで、お腹を壊してもいいやと覚悟の上で一口ずつ食べました。

 

母は死んでしまったのに、母の作った粕汁はそのまま存在している。

そのことがなんだか切なく、初めて母を失った悲しみを実感しました。

 

それでも粕汁はおいしく、最期まで私たちをもてなしてくれました。

おふくろの味に感謝して、たいらげた時には皆笑顔になっていました。