父のこと
阪神淡路大震災の年に私の父は亡くなりました。
震災で亡くなった訳ではありませんが、震災がなければもしかしたらもう少し長く生きていたかもしれない。そう思うことがあります。
というのは、震災の日父は大阪の病院に肺癌で入院をしていました。
手術の日にちは決まっていませんでしたが、その準備をしていたと思います。
そんな時震災があり、たくさんの患者さんが父の入院する病院にも運ばれて来ました。
父は手術まで自宅で待機していましたが、手術の予定が2ヶ月くらい先延ばしとなりました。
そんなに先で大丈夫なのか心配ではありましたが、緊急の患者さんが優先なのは当然ですし、医師の判断を信じていました。
手術自体は日常的に行われている難しくない手術で心配ないとのことでした。
しかし手術室に入って予定の時間が過ぎても、もっと過ぎても父の手術は終わらず、
何かトラブルがあったことは分かりました。
手術後医師の説明では、肺の手術が終わってから体内で出血していることが分かり、すぐに処置をしたけれど、脳に酸素が行ってない時間があった。
というようなことだったと思います。
術後父は3ヶ月間生きていてくれましたが、その間寝たきりで話すことさえできませんでした。
震災がなければ、
予定通りに手術ができていたら、
なぜ父はこんなことになってしまったのか、
手術後、姉も私も医師に原因を追究したい気持ちが強くあったのですが、
母が今は治療して治してもらわないといけないから、事を荒立てたくない、
と言ったので私たちは従いました。
3ヶ月間、母は毎日病院に通い父に付き添っていました。
些細な父の変化に一喜一憂している母を見るのもつらくて、大阪へ見舞いに行くことが、気持ちも足も重かったことを、
今でも父、母に申し訳なく思っています。
母の看病の甲斐なく父は肺炎で亡くなりました。
父の知人には訴えて責任追及しないのか、と言う人もいました。
姉も私ももちろん母も、父の死を納得していたわけではありません。
お葬式を済ませてから3人で病院に、父の死は何だったのかを聞きに行ったりもしました。
病院は何か警戒しているのか何人もの医師が同席し、私たちは萎縮してしまいました。
医療過誤についても調べたり、相談窓口に電話したりしましたが、
医療裁判となるととてつもなく負担がかかることは、無知な私たちにも想像ができました。
母の残りの人生を裁判を起こす事で、さらに苦しい思いをさせてしまうのではないかと、
結局父の死を受け入れるしかありませんでした。
お母ちゃん、
お父ちゃんには会えましたか?
怒ってなかった?
あの時、何もできなくて、ごめん…
そう言っといて下さい。