あーかい あーかい まっかいけ

85歳の母が亡くなった。母の死から教えられたことをすこし聞いてもらいたい。

葬儀代 高すぎませんか?

前もって言い訳をしておきますが、私にはそもそも信仰心というものが無く

加えていいますと常識知らずなところも多々あるので、

今回の話題はいい大人が語るには大いに的外れなのかもしれません。

が、そう思ってしまったのだから、思ったことを率直に書いてしまおう。

という気持ちで進めたいと思います。

 

 

母が亡くなり直ぐに、常々お世話になっているお寺に母の訃報を知らせました。

その瞬間からお葬式の段取りは着々と進んでいきました。

お寺の紹介で葬儀社の方が駆けつけて来られ、

母の遺体の搬送から葬儀の細かい手配について、ひとつひとつ打合せていきました。

 

 

祭壇は何段階かの値段設定と、飾り付けのパターンを見本の写真より選びます。

まずこの時点で値段の高さに驚きました。

姉や義兄や夫は  

”これくらいは相場やで” 

と、当たり前に受け止めていましたが、

その相場が高すぎだと思いました。

 

 

母は、葬儀にかかる費用は娘の私達の負担にならないようにと、

通帳に充分な額を残してくれていました。

なので、母の葬儀に対して派手なことはしませんでしたが、

出し惜しみすることは無いようにしよう、と姉と話しました。

 

母の最期のセレモニーに使うお金を母の遺したお金で払うんだから、

私が高すぎるとか言うのも、おかしなことなのかもしれないけれど、

この大金を死んで葬儀に使うなら、生きている間に母にもう少し贅沢をしてもらいたかった。

 

以前テレビで年配の方々が

葬式代だけは残しとかないと

と、口を揃えて言っておられるのを見て、少し違和感を感じていたのです。

なんでお年寄りが自分が死んだ時のために、せっせとお金を貯めないといけないんだろう。

 

 

最終的に母が亡くなってかかった費用は、葬儀一式、お布施も、食事代も全部合わせて、

私が週4日ひたすら働いて得る収入、2年分でも足りませんでした。


これが当たり前なら、

そりゃみんな心配になりますよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丁寧に生きる

喪中葉書を送りました。

と言っても、母の関係の宛先に送る分は姉が全部手配してくれました。

私は毎年年賀状を送る自分の家の分しか頭に無くて、

母が送っていた分まで気が回りませんでした。

 

喪中葉書で母の訃報を知った母の幼馴染や女学校時代の友人の方などから、

お返事をいただきました。

 

向かい同士の家で、同じ学年だった方からは

小学校で母が書いた、妹が生まれたときの感動した様子の作文を担任の先生に褒められていたことや、

大人になって母に就職の世話をしてもらったこと

2年前にはその方のご自宅にまで遊びに行って、たくさんお話をしてまた会いましょう、と約束をしたこと

など母との思い出をたくさん教えて頂きました。

 

女学校時代のお友達からは、

戦争時代学徒動員で福助足袋に勤めていて、母が迎えに行って一緒に通勤していたこと

その方のお誕生日が3月3日なのでおすしを作って母を招き、お祝いをしてもらったこと

そのお祝いに母手作りのかわいい雛人形をプレゼントしてもらったこと

などやはり母との思い出を書いてくださいました。

 

私の知っている母はずーっと全部が母親なので、

母の友人からのお手紙で、母が一人の女の子として生きていた様子を知って、

嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになりました。

また、こうして母を想って母の死を悲しみ、丁寧なお手紙を送ってくださった、

友達ってありがたいなと、しみじみ想いました。

 

私の友達も喪中葉書を受け取って連絡をしてくれました。

小学校入学の日から付き合っている友達は

”おばちゃんの声いまでもおぼえてるよ”

”参ってないですか、無理しないで”

といたわりのメールを送ってくれました。

私を心配して直ぐに電話をくれた友達もいました。

 

常日頃私はとても雑に生きています。

このブログも1ヶ月以上ぶりだし、

ラインやメールの返信もなかなか返さないし、

毎年の年賀状も29日くらいになって慌てて出して元旦に間に合わなかったり、

言い出せばきりがありません。

 

私の性格が簡単に変わるものではないと思いますが、

姉のように、

母の友人のように、

私の友人のように、

もう少し丁寧に生きられたらいいな

と、今回の喪中葉書での一連の出来事が私の意識を少し変えてくれました。

 

 

 

 

 

 

 

 

もやっとした気持ち

前回のブログで次女が一人暮らしを始めたことを書きました。

母が遺した、家電の数々から台所の日用品に至るまで沢山の物たちが

横浜の片隅で次女と生活を共にすることになりました。

いずれ処分し片付けないといけない物ばかり、

最も有効に使うことが出来て

「おかあちゃんも喜んでるよ」

と姉も気持ちよく譲ってくれました。

 

 

一から買い揃えたら随分な出費になっただろうなと思うと、本当に助かりました。

ただ、助かりすぎてほんの少し

もやっとした気持ちが生まれました。

母が亡くなったことが、私の助けになったこと。ラッキーにつながったこと。

うまく言えないけど、なんか喜んでるみたいなのが自分の中で、

もやっと嫌な感情になっているというか、ややこしい気持ちです。

 

娘の独り立ちに不安と寂しさが膨らんで、

私の思考回路がマイナスへ向かっているのかもしれません。

中秋の名月

下の娘が東京で仕事をすることになり、家族総出で娘の引越しを手伝いました。

東京で仕事と言っても住むのは横浜の片隅ですが…

車で荷物に埋もれながら行きましたが、帰りは旦那が先に車で帰り、私はその翌々日に帰り、上の娘は東京を満喫し足らないのか更に残りました。

 

その帰りの新幹線での出来事です。 

節約して各駅停車のこだまで帰ることにした私の席は3列シートの真ん中で、

おおよそ4時間、ずっと座ったままで少しくたびれました。

窓側の席の方が途中で下車され、

浜松駅からその空いた席に外人さんが座りました。

欧米の方には新幹線の奥の席はとても窮屈そうでした。

席についてすぐに隣の私に

「食べてもいいですか?」

と言葉をかけてから、ドーナツを食べ始めました。

反対隣の女性が座ってすぐにおにぎりを食べ出した時には何も思わなかった事が、

この外人さんの一言で、マナーというかエチケットというか、気配り大切だなと思いました。

 

 

岐阜を過ぎたあたりでその外人さんが突然私に携帯電話を差し出し、

「見てください

    昨日生まれました

    瑠菜といいます

    嬉しくて」

と、かわいい赤ちゃんの画像を見せてくれました。

 

LINEに貼られた画像には

中秋の名月にちなんで

   瑠菜(ルナ)という名前をつけました」

という文章が書かれていました。

 

それをきっかけにその外人さんと下車するまで色々お話しました。

この瑠菜ちゃんという赤ちゃんは、彼の奥さんのお姉さんが出産されたそうで、

奥さんは仕事で行けなくて、一人で会いに行ったそうです。

 

奥さんとはハワイで出会い、今は大阪の天王寺で暮らしているそうで、

仕事をしながら日本語の勉強をしている、

と上手な日本語で話してくれました。

 

私も娘の写真を見せて

「初めての一人暮らし、心配です。」

とか、色々私の話もやさしく聞いてくれました。

 

袖振り合うも多生の縁

こんなことわざを思い出しました。

 

 

この生まれたばかりの瑠菜ちゃんが、母の年齢になった時、

この日本は、世界は、

どうなっているのでしょう。

瑠菜ちゃんの子や孫が、楽しく笑えている、

そんな世界でありますように、

そう心から願いました。

 

瑠菜ちゃん

あなたの異国からやって来た義理の叔父さんと

あなたの生まれた翌日、義理の叔父さんとたまたま新幹線のお隣同士になった見ず知らずのおばさんが

瑠菜ちゃんの誕生を喜び、瑠菜ちゃんの成長を祈りました。

 

 

 

母が亡くなってはじめたこのブログ

当たり前のことだけど、誰かが死んでも、どこか遠くで新しい命は生まれている。

何の信仰心もない私ですが、大きな命のつながりというものを深く実感しました。

 

 

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 中秋の名月

あんまり綺麗だったので人通りの多い中、慌てて写真を撮りました。

翌日あんな素敵な出会いがあるなら もっとちゃんと撮っておけばよかった。

後悔の一枚です。

 

 

あーかい あーかい まっかいけ

このブログのタイトル

 あーかい あーかい まっかいけ

なんのこっちゃわからん 不気味なタイトルですが、

ちゃんと由来はあります。

 

49日の満中陰の日、

お寺で法要を終えその後、母の姉、妹、義妹、義弟に母のマンションに寄ってもらい、

形見分けのようなことをしました。

わざわざ来て頂いてまで貰ってもらえるものなどないのですが、

母が長年にわたって買い集め、古くなっても捨てられずにしまわれていた、

衣類や雑貨をみんなでわいわいおしゃべりしながら貰って頂きました。

とてもたのしい会になり、母もここに一緒にいれたらさぞ楽しかろうに

と、思いをめぐらせました。

 

古着ばかりで申し訳なかったのですが、数が多く結構な荷物になりました。

一番年長の伯母は足が少し悪いので、看護師をしている姪の車で伯母の家までお送りすることになりました。

私の次女も一緒に付いて行ったのですが、

「おばあちゃんに歌おしえてもらった〜♪」

と言って帰ってきました。

 

 

母と伯母が幼い頃、

あぜ道に咲いた沢山の彼岸花を見て

2人で作ったというのが、

 

 あーかい  あーかい  まっかいけー

 

という歌です。

リズムに乗って

あーかい   あーかい  まっかいけー

と言うだけの歌です。

だんだんキーを上げていき、歌えなくなるまで歌うのだそうです。

 

その話を聞いた時、

80年前に時間は戻り、

小さな2人の少女がケラケラ笑いながら歌っている

そんな秋の日の風景が浮かびました。

 

 

母の幼い頃の思い出を娘から聞かされる

私には童話をきいているような

優しい気持ちになりました。

 

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夢の話

母の葬儀が終わってから満中陰まで、

仕事休みの日は実家へ行き母の遺品の整理をしたり、

銀行や役所などのさまざまな事務手続きに追われていました。

そんな中、一日だけ実家に行かず家でゆっくり出来た日がありました。

疲れていたのか、気が緩んだのか、いつものことか、

久しぶりに二度寝をしてしまいました。

 

そのときの夢のはなしです。

 

 

顔ははっきり覚えていませんが、

オフホワイトのニットのアンサンブルスーツを着た上品な感じの女の人がただ静かに立っていて、

私はその人に

「あんた、生きてんの?生き返ったん?」

と驚いて話しかけています。

が、その女の人は黙って立っています。

私は

〝この子が生き返ったなら、おかあちゃんも生き返ったかも…〟

と、急いで母のもとへ。

行くと母が布団からモゴモゴ動き出していました。

私はそれを見て、家を飛び出し向かいの家のドアをドンドン叩きながら

「姉ちゃん!姉ちゃん!

  お母ちゃん生き返った!

  お母ちゃん生き返った!」

 

という、へんてこな夢です。

 

その女の人が誰なのかその時はすぐにはわからなかったのですが、

話している言葉や雰囲気はとても親しい人のようでした。

 

 

そして思いついた人がいました。

私たち姉妹にはもう一人、妹がいました。

私の2年下の妹です。

生まれて10日で亡くなってしまったのですが

 悦子 という名前の、

母が言うには私たち姉妹の中で一番可愛かったそうです。

 

その悦子が素敵な大人になって、私に会いに来てくれたのでしょうか。

私の疲れた脳が二度寝の中で、忘れていた悦子の存在を目覚めさせたのでしょうか。

 

 

母が亡くなって悲しくて泣く、ということがそれまであまりなく、

私って母親が死んだのに泣かないんだな、と思っていました。

その夢から目覚めたとき、悲しくて布団で一人泣きました。

 

以前にこのブログで、

頭の中で私が私に

〝死ぬって何?〟 

と問いかけてくる。

という話を書いたのですが、

今思えばこの夢を見たあたりから、その声は聞こえなくなった様な気がします。

 

悦子が私に

「おかあちゃんは、死んだんやで」

と教えにきてくれたのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

初盆

先週お寺で初盆のお参りがありました。

昨年8月から今年7月までに亡くなった方々と合同のお参りでした。

本堂に並べられた御位牌の数はおおよそ20ほど。

それぞれの家族が集まり故人を偲びました。

どこのおうちでも我が家と同じような出来事が、あれこれ繰り広げられたであろう、

と思うとその日初めて居合わせた人たちに、少し親しみを感じました。

 

母が亡くなり早いもので半年が過ぎました。

いまだに大阪の実家に行けば母に会える気がします。

次にお寺で親族が集まるのは1周忌の法要、

そのときもまだ今のような気持ちでいるのでしょうか。

 

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お寺の納骨堂に父母のお墓があります。

小さな台に乗せられるだけ、母の好きだったものをお供えしました。