あーかい あーかい まっかいけ

85歳の母が亡くなった。母の死から教えられたことをすこし聞いてもらいたい。

最期の言葉

翌日の火曜日早朝、姉から

母の容態がよくないと病院から電話が入ったので、至急行ってほしい、自分もすぐに向かうので、

と言う内容の電話がありました。

この日はこの時点から私の記憶が断片的で、

大切なことがあやふやだったり、ふとした瞬間が鮮明だったり、

どういうわけか、まだらな記憶になっています。

 

急いで自転車に乗り病院に駆けつけました。

酸素吸入のマスクを付けて母は眠っていました。

この病院で看護師をしている姪も急いで来てくれ、その日は休日だったのでずっと看病してくれました。

のどが渇いてつらそうな時も、姪はガーゼを湿らせ母の口の中をきれいに拭いてくれました。

その時の母は気持ちよさそうで、言葉にはできないけれど喜んでいることが伝わりました。

姪とふたりして  母が喜んでいることを喜び合いました。

また、昨日買ったばかりのパジャマのゴムがきつい事にも気付いて緩めてくれたり、本当に助かりました。

身内に医療の従事者がいるのはすごく心強いものだと実感しました。

 

母は一生懸命何かを伝えようとずっと口を動かしているのですが、

入れ歯をはずし酸素吸入のマスクもされているので、

空気が抜けるばかりでなにを言っているのか解りません。

姉、義兄も到着し母の容態を心配そうに見守るしかありませんでした。

 

姪が(母にとって孫、姉にとっては次女なんですが)

入れ歯を入れてあげよう、と言って母の口にはめてくれました。

 

それでも弱弱しい声で何を伝えたいのかなかなか解りません。

そして、やっと聞こえたのが

 

「め・・・」

「め・・・」

 

「何? 目がどうしたん?」

「目が痛いの?」

「目をどうしてほしいの?」

 

みんなして聞き取ろうと、必死で乗り出し集中しています。

 

「めぃ・・・」

「めぃ・・・」

 

「?」

 

あっ!そうか、

「めいわくかけるな」

「めいわくかけるな、って言ってんの?」

そう言うと、

母はやっと通じた、といった風にゆっくり頷きました。

 

 

この後集中治療室に入り、刻々と容態は悪化していきました。

 

 

最期まで自分より私たちの事を気にかけていてくれた母の最期の言葉、

あの時のやっと理解できた嬉しさと、意表をつかれた言葉の重さは、

まだらな記憶の中で最も鮮明に焼きついています。